石井ゆかり@筋トレのブログです。
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主語と述語

日本語は、主語を明確にしない言葉だ
といわれている。
たしかに、そうかもしれない。
英語を勉強するとそう思う、
やたらに「I」だの「You」だの、
だれが
なのかをきめて言いまくらなければいけない気がして
気が引ける。
「私はこうだ」
なんて、出来れば言いたくないのだ。
「そういえばそういう話、きいたことがあります」
くらいでおさめておきたいのだ。
つっこまれても
責任取れないからだ。

日本では
終戦記念日
という。
「終戦」
という言葉を使う。
「敗戦」
とは、いわない。
「終戦」

「戦争が終わった」
ということだ。
「戦争」が主語で
「終わった」が述語だ。
「敗戦」は違う。
「戦争で負けた」
のだから
誰と誰が戦争をしたか
誰が勝って、誰が負けたか
そもそも、誰が何のために戦争をして、負けたのか

気になってくる。
でも
「終戦」
は、そうじゃない。
誰と誰が何のために、はどうでもよくて
「戦争」という現象が、終了したのだ。
それは、災害や事故みたいな言い方に似ている。

日本で「戦争体験」「戦争の記憶」というときは
必ず「戦場」の状況が語られる。
空襲を受けたり、戦地に行って苦労をしたり
敵も味方も同じように、悲惨な目に遭う。
残酷なことが起こり
非人間的な行為がまかり通る。
皆が、深すぎる悲しみと、想像を絶する苦痛を味わう。
皮膚が焼けただれて剥けた親子、黒こげの死体の山。
戦争は悲惨だ。
あってはならないことだ。

では、その戦争は
「誰が」「何のために」したのだろう。
昔、中学や高校でつかった社会の教科書の記憶をたぐるが
そのことをビビッドに
「こうです」
と思い出すことが出来ない。
大東亜共栄圏、アメリカの経済制裁、欧米の植民地支配、軍国主義
漠然とイメージは浮かんでくるけれど
主語と述語

ぱっとひらめかない。


ドイツが侵略をすすめていったことは
主述がハッキリイメージできるのだ。
たいへん大まかでぶつ切りだけど、要は
主語がヒトラーナチス・ドイツというアイコンで
述語は、第一次世界大戦で絞られたあと、
ドイツが力を「回復」しようとした、「拡大」しようとした
というイメージになる。(ちがうのかもな(汗))
日本だってそういうフシがあったわけだ。
でも
思いを込めて、価値観込めて「こどもたちに」語られるのはいつも
「戦争」
ではなく
「戦場」
だ。
「どうやって戦争が起こらないようにするか」
ではなく
「どんなに戦争がオソロシイか」
のみが、語られる。


これは、子供がなにか悪いことをしたときに
「それがどうして悪いのか」
を教えるのではなく
「たたくよ!たたかれると痛いよ!」
と脅すのと、同じ構造を持っている。


イラクのまんなかでバカと叫ぶ」
という本、昨年読んで、ものすごく好きになった。
著者の戦場ジャーナリスト、アイアンシルバー・橋田氏は、
イラクでテロリストに殺された。
彼はこの著書の中で
「戦争」と「戦場」は違う
と書いている。
なるほど、と、私は思う。


中国の反日デモのニュースを連日、目にするとき
強いとまどいと恐怖、当惑、怒り、それらのない交ぜのようなモノを感じるのだが
自分で自分のとまどいの理由がよくわからなくて
あれこれ考えた。
そのとき、
あっ
ってぶつかったのが
「敗戦」と「終戦」の違いだった。

罪悪感のなかでひたすら自虐的になったり
相手の言うこと何でも聞いたりするのが
正しい
とは、わたしは、思わない。
でも
戦争は、人間がやるのだ。
だからそこには、意志や意図や経緯がはたらいている。
私たちは多くの尊敬すべき戦争経験者たちにおしえられて
戦場
の悲惨さは、物語としてだけれども、とてもよく知っている。
でも
戦争
については、どうなんだろう。

私はつねに
恋には内容がある
この恋とあの恋は同じではない
と、たくさんの人に語ってきた。
でも
恋で起こることはだいたい似ている。
手をつなぎ、抱き合い、キスをして、セックスして、結婚して、子供を作って、育てる。
デートしたり、別れたり、電話で長話をしたり、一緒に仕事したりする。
恋愛の現場で起こる現象は、どれも似ている。
でも、個々の恋愛には
それぞれの事情があり、恋に落ちた理由や経緯があり、
お互いの成長度合いや人間的な個性があり、その個性同士が噛み合ったり反目したり
抱えているテーマがあり、求めている欠落があり
そのような人間的なバリエーションは、ほんとうに、千差万別なのだ。


それと同じように
戦争も
戦場で起こることは、みな似ている。
人々が傷を負い、大事なモノを失い、痛みと苦しみと飢えと不衛生を味わう。
でも
戦争の起こり方は
内容が全て違っている。
その内容を深く強く考えなければ
戦争は終わらない。
愛のないセックスに意味はないのと同じだ。
戦争のもつ個別の物語を考えずに、戦場の悲惨さのみを語るのは
セックスだけを語って、愛のことは語らない態度と同じだ。


私は
太平洋戦争という「戦争」を
やっぱり、恥ずかしいけれど
よく知らないのだ。
だから、こんなとまどいが起こるのだ。
あの反日デモを見て
明確な感情を持ち、その感情に確信が持てないのは
知らないから
なのだろう。
もやもやっとした思いでいっぱいになって
でも、その「思い」について、自分でこうとアウトラインを決められないのだ。

こんなのじゃ
ダメだなあ
とおもった。
もっと勉強しなくちゃなあ。
こんな歳になって、こんな大事なことも知らないなんて
モーレツに恥ずかしい。
でも
死ぬまでは生きているんだから
気がついたら、そのときにやるしかないんだよね。

ナサケナイ自分を鼓舞するのであった。