石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

知人、というよりもうすこし遠い方

昨日部屋に遊びに来た家族の一人が新聞を持っていて
挟み込まれていた
「NIKKEIプラス1」

忘れていった。
一人になってそれをみつけ
なんだかこう
なつかしい思いで手にした(早く契約しれ)


以前は本編だけで
もうおなかいっぱい

プラス1
まで手が回らなかったのだが
今の瞬間はこれしかないということで
罪悪感なしに 読める。


プラス1
は1面から持ってきて
・おすすめスーパー銭湯ランキング
・売れ筋チェック、CDシングル上位5作品
など
内容がやわらかく
ともすればワイドショーに近く
「に、苦手だけど、新聞を読むぞ。。」
と気張っていた私には
「あそんでんじゃねーぞ」
的な罪悪感を感じさせる読み物だったというわけである。
「そんなモノが新聞だと思うなよ」
という
ストイシズムにさいなまれていた。
プラス1を読むことは
己の課題からの逃避である
的な感覚を持ってしまっていた。


なので
今日
罪悪感なしにこれを語れるのは
非常にうれしい(オオゲサ


でも
はっきり言ってこれのことを書こうと思ったのは
そんなことが動機ではない。
もっとすごい動機がある。


NIKKEIプラス1、17面にある記事をみて
胸ときめいたのだ。


どこの馬の骨ともしれない不肖石井ゆかり
今は無き「日経ネットナビ」という当時はもちりん有名だった雑誌で紹介して下さった
素敵ライター・ヨダエリさまのお名前を発見してしまったからなのだ。
ヨダエリさんのところ↓
http://www.dayorin.com/index.html
わー
知ってる(?)ヨダエリさんだー
すごいすごーい

ミーハーしてしまった。
奇しくも(?)ネタは「ブログで広がる交流」。
これは、はてなで書かない手はナイ。


しかしだ。
私だってすこしは冷静な部分もある。
あのね。
ライター様なのだから
記事に署名を見つけるのは
アタリマエ
なのだよ。
お仕事なのだから。
アイドルがテレビに映っても不思議はない、のと一緒なのだよ。
だからコーフンすることは、ないのだよ
と自省したが
いーじゃん私もりあがってるんだから

敢えなく却下。


記事を拝読し
ヨダエリさんを「えらいなー」と感じるのは
まさに冒頭部分。
「ブログ」
ってのはもともと「book-log」の略で
アメリカで始まって
その人がその日に訪れたサイトのURLをメモ的に残して公開する
みたいなところからはじまった云々
という
「そもそも」をやらないのだ。
フツウの書き手は、これをやりたい衝動に駆られる。
このことの発祥
このことの大本
店は「元祖」か「本家」かで敵対するし
ようするに
自分が入れ込んでいるモノはみんなが思ってるようなもんじゃないんだぞ
もっといろんな意味や歴史があるんだぞ

あれこれみんなの知らないトリビアを口走りたくなるのが、発信者なのだ。
この記事は
それをやっていない。
1行もいれてない。一言も触れてない。


「日記」は「ブログ」とは、元々はあまりカンケイナイ。
日記は文章だけど
ブログは「毎日作るリンク集」みたいなものが、厳密なそのコトバの定義だ。
でも今
人々が「ブログ」と呼ぶモノは
それとは異なる。
ヨダエリ様はこれを
「日記感覚で手軽に開設・更新が出来るホームページの一種」
と書いていらっしゃる。
そのとおりなのだ。
たしかにみんな、それを「ブログ」と呼んでいる。
運用している間に
みんなが使っている間に
「ブログ」の語義が、変化したのだ。
コトバは
使われることによって、その意味を変えていく。
コトバの方でアプリオリに意味を持つことはない。


このNikkeiプラス1の読者層や、読むときのモチベーション等を考えると
そんなネット社会の「そもそも論」をやったって
話をややこしくするだけで
意味はない。
それに
バリバリネットユーザはもうすでに
持ちたければブログを持っているわけであって
インタビューしている「はてな」の会社とかgooブログの会社とかに恵みの雨となるには
「ブログって聞いたことあるけどなにかわからん」
「今更人には聞けない、でも持ってみたい」
という人たちの心にアタックしなければならないわけである。
「ログ」「URL」「リンク」などといおうものなら
「ああ、、、やっぱり俺たちにはカンケイナイ世界なんだ」
と肩をがっくり落とす中高年の群れができるだけで
なんにもだれにもイイコトナイわけである。


「デジカメとメールさえ使えればブログは出来る」
というエライ人のコメントが乗っているが
デジカメも使えなくても、ブログは出来る。
会社で一太郎を使っていても
それをメールに添付して送信し、みんなを困らせる程度の技術があれば
ブログは作れる(と思う)


正しい記事
正確な記事

読んで「わかる」記事
とがあるが
その「わかる」にも、いろいろな種類がある。
「理解できる」ことと「イメージが浮かぶ」ことはちがう。
「理解でき」たとしてもそのあとに「判断」がくる。
すなわち
「自分に関係がある」とおもえるかどうか。
「なるほど、やってみたい」と興味が湧くかどうか。
ここである。


あ、あと、最後のところにある「注意点」みたいなのもストライク、と思った。
自分の個人情報でなにができるか
って、善人(というか小心者)の我々にはなかなか想像しにくいので
うっかり危険地帯に足を踏み入れてしまうことも、多々、あるわけで
そのへんのかゆいところに手が届いている。

勝手に感心していた。


広告ではなく、宣伝ではなく、
説明文でも取扱説明書でもない、このようなテキスト。
簡単なようで、すごく難しいと思うのだ。
ゴールを、自分で明らかに想定しなければ成らず
そこで想定されるゴールには
ある種の哲学や価値観が
見えないように、かつ、板金のごとく打ち立てられていないと
読む側はどこに向かってイイか解らなくなるからである。



ヨダエリ様の文章は、肩の力が抜けている。
だから読む方も構えなくて済む。
でも
肩の力を抜いたとき
というのが
本当は一番大変なのだ。
肩の力を抜いてもちゃんと一方向に走る能力
というのは
並大抵のモノではない。
学術書でも何でもそうだが
読み手は必ず、書いてあるモノに深い部分で何らかの感情移入をするのだ。
でなければ、文脈をたどることは出来ない。
その「感情移入」の道筋に責任を持つことは
簡単なようで難しいのだ。
どんなに客観的な記事を書いていても
そこには逃れようもなく「自分」がいる。


テキストライターは究極のところで
嘘をつくことが出来ないモノではないかと私は考えている。
自分で書いたモノを自分でまず、読むんだから
なんかこう
天知る地知るちるちるみちる
というか
「オマエのやっていることを
オレは見ているぞ〜」
という気分に
どうしてもなってしまうのだ。
だから
どんなに明るくきれいな文章を書かなければならなくても
それに心底嫌悪感をもっていたとすると
なんとなくその嫌悪感が
どこからともなくにじみ出てしまうのではないか
と思うのだ。
そしてそのテキストからは
その商品は何となくダメなんだな
という
明らかな結論が出てくる、ような気がするのだ。


かつてソフトウェアのプログラマたちが
自分の書いたプログラムにこっそり
「いくつかの複雑な動作を繰り返したときに自分の大好きなアイドルの名前がはしっこに表示される」
とか
「『バカ』という文字を表示されない部分に埋め込む」
とか
そういう奇怪な機能を付け加えた気持ちがなんだかわかるのだ。
それも或いは
「自分に嘘がつけない人の行動」
の一環なのでは無かろうか、と。


今回の満月、
なんだか怒りモードの方が多いようだ。
掲示板でもメールでも
「腹が立ってます」
というお話がとっても目につく。
牡羊座水星逆行、牡羊座は火星の領分なのだが
「よく考えてみると、。。。きさま、なめんじゃねーぞ」
的な「フラッシュバック」が起こっているのだろうか。
前回の日記は「爆発」を書いたが
今は人間たちの心が
バクハツ気味
なのかも
しれない。


私は別にあれだ
いまのところかなり
おだやかです。うふ(^^)



ps.
ヨダエリ様、勝手にネタにしてごめんなさい。ゆるしてくださいね。